小田高の歩み1(創立前史)

明応4年(1495)

9月 -日
北条早雲が八幡山の小田原城を攻め、大森藤頼を討つ

明応4年 小田原城西曲輪の障子堀 上に武道館が見える
小田原城西曲輪の障子堀
上に武道館が見える

天文9年(1540)

11月21日
二代北条氏綱が鎌倉鶴岡八幡宮造営を完成し、その分霊を勧請して本校東側に八幡宮を建立

天正18年(1590)

8月1日
徳川家康の家臣大久保忠世が小田原城主となり、徳川信康を祀る八幡宮を本校グラウンドの地に建立

文政5年(1822)

1月 -日
小田原藩主大久保忠真が小田原城三の丸に藩校集成館を創設

文政5年(1822) 小田原藩主 大久保忠真(小田原城天守閣蔵)
小田原藩主 大久保忠真(小田原城天守閣蔵)

明治2年(1869)

4月 -日
小田原藩主大久保忠良が旧地方御役所に英学校を創設し、集成館を文武館と改称して英学科新設など大改革を断行

明治4年(1871)

9月 -日
小田原藩が小田原県となり、文武館を県学校文武館と改称
12月 -日
小田原県が足柄県となり、県学校文武館を足柄県に移管

明治5年(1872)

4月13日
県学校文武館が官費学校廃止の大蔵省布達により廃止される。足柄県参事柏木忠俊が県学校文武館の校舎等の下付を受け、旧小田原藩主大久保忠良邸(御浜御殿)に英学を主とする変則中学の共同学校を開校

明治7年(1874)

10月 -日
共同学校が財政上運営困難になり、足柄県に移管し小田原講習所花園学校とし、予科英学を併設

明治9年(1876)

3月 -日
足柄県が「学制」に基づき、小田原講習所花園学校の予科英学を中学科に改める。
韮山講習所対岳学校の予科英学も中学科に改める(現静岡県立韮山高校)
4月18日
足柄県が神奈川県と合併し新しい神奈川県となり、小田原講習所花園学校の中学科を本県初の県立中学校として継続
7月12日
小田原講習所を小田原師範学校と改称

明治12年(1879)

10月31日
小田原師範学校が経費削減の県会議決により廃止される
11月10日
大住・淘綾・足柄上・足柄下・愛甲・津久井の相模六郡が、小田原師範学校の敷地・校舎等の下付を受け、六郡共立小田原中学校を開校

明治12年11月10日 「文部省第7年報」明治12年 5番目が小田原中学校
「文部省第7年報」明治12年
5番目が小田原中学校

明治14年(1881)

3月15日
津久井郡が離脱し、五郡共立小田原中学校となる

明治19年(1886)

2月 -日
神奈川県中学校模範教則をめぐり中学委員が対立し、五郡共立小田原中学校が廃止される
5月 -日
足柄下郡有志が旧五郡共立小田原中学校に足柄下郡立小田原英学校を開校。足柄上郡・大住郡・淘綾郡が三郡共立学校を設立(現県立秦野高校)

明治20年(1887)

3月 -日
足柄下郡立小田原英学校が財政上運営困難になり廃止される

明治21年(1888)

6月 -日
小田原町会議員等が将来郡立を目的に小田原町万年に私立足柄英和学校を開設

明治23年(1890)

-月 -日
私立足柄英和学校が財政上運営困難になり廃止される
11月20日
神奈川県師範学校の郡部移転案が県会で発議され、小田原町が県知事に小田原町移転を出願するが、猛烈な誘致運動の末鎌倉に決定

明治25年(1892)

11月17日
神奈川県当局が県会に尋常中学校の小田原設置を提案するが、県会が本県は東京に近く東京の中学校に通学できるなどの理由により廃案とする

明治25年 中学校設置案の廃案を伝える「横浜貿易新報」明治25年11月18日
中学校設置案の廃案を伝える「横浜貿易新報」明治25年11月18日

明治28年(1895)

10月26日
小田原町が学習院の地方移転案を伝聞し、小田原町設置を出願
11月27日
小田原町会が尋常中学校の小田原町設置を決議し県に出願、以後この運動を毎年継続
12月4日
県会が尋常中学校費を可決し、小田原と横浜が設置候補地となり、県当局が横浜に決定(現県立希望ヶ丘高校)

明治32年(1899)

5月 -日
足柄下郡会議員・小田原町長・小田原町会議員等が、神奈川県第二中学校の小田原町設置を発起し、足柄下郡有志192名の連名をもって「県立中学校設置之議ニ付建議書」を県知事に提出

明治32年 足柄下郡会議長 神原富文
足柄下郡会議長 神原富文

明治33年(1900)

4月25日
文部大臣樺山資紀が神奈川県第二中学校を小田原町に設置し明治34年4月より開校することを認可
5月29日
県知事浅田徳則が神奈川県第二中学校を小田原町緑町4丁目に設置し明治34年4月より開校することを告示

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