NHK大河ドラマ「花燃ゆ」と吉田庫三初代校長

yoshida文は庫三先生の叔母

「花燃ゆ」の主人公・杉文(ふみ)〔井上真央〕は、吉田庫三初代校長のお母様の妹、つまり叔母です。吉田松陰〔伊勢谷友介〕には千代、寿(ひさ)〔優香〕、文の三人の妹がいました。千代が庫三先生のお母様です。千代は松陰のすぐ下の妹で、松陰は野山獄に投獄されていた間、しばしば千代に手紙を書き送り、千代も自分で縫った着物やみかんを何度も兄に届けました。

庫三先生は7歳で松下村塾に入り、松陰を鍛え上げた玉木文之進〔奥田瑛二〕から12歳になるまで教えを受けました。吉田家第11代として松陰刑死後の吉田家を継ぎ、萩や東京世田谷の松陰神社の例祭にはいつも祭主として立たれました。庫三先生の墓は、萩の松陰の墓の左隣にあります。その説明板には「神奈川県第二中学校初代校長(現在の県立小田原高校)を務める」と記されています。

小田原に赴任した楫取素彦

長州藩校明倫館と松下村塾の教師だった小田村伊之助〔大沢たかお〕は、文の姉である寿と結婚しました。楫取素彦(かとりもとひこ)と改名し、明治5年、足柄県参事(副知事職)として小田原に単身赴任します。足柄県庁は、小田原城二の丸、現在の二の丸広場(旧小田原市立城内小学校敷地)にありました。楫取は関東で働くことを心に決め、寿を小田原に呼び寄せました。明治7年に熊谷県(現群馬県)権令(知事職)に就任するまで、足柄県権令柏木忠俊とともに、小田原藩校集成館を継承する共同学校の開校に尽力しました。明治6年に自ら百円を寄付しています。共同学校は、学科が中学英学と洋算の変則中学でしたが、足柄県と神奈川県における唯一で最初の中学校でした。その後、寿が病死し、楫取は文と再婚します。

松陰を支えた人たちと庫三先生

sestumeiban長州藩政務役の周布政之助(すふまさのすけ)〔石丸幹二〕は、松陰を最もよく理解し、安政の大獄に巻き込まれないように配慮しました。松陰の埋葬に公金を出して補助し、吉田家の再興、松下村塾の復活などに尽力しています。その息子の周布公平は庫三先生の人格と学識をよく知り、明治33年に神奈川県知事に就任すると、庫三先生を神奈川県第二中学校初代校長に招請しました。

松下村塾の四天王だった入江九一(いりえくいち)〔要潤〕の弟、野村靖〔大野拓朗〕は、獄中の松陰に従い、最後まで松陰の手足となって奔走しました。明治9年に神奈川県権令(知事職)に就任し、足柄県と神奈川県が合併して新たな神奈川県が誕生すると、旧足柄県の小田原講習所中学科を神奈川県初の中学校として継続しました。明治22年頃、小田原の御幸の浜に別荘黄夢庵(おうむあん)を建て居住し、松陰の遺書『留魂録(りゅうこんろく)』を庫三先生に提供して『松陰先生遺著』の編纂に協力するなど、庫三先生とたいへん親密でした。

校史展示室では、楫取素彦に言及した乃木将軍の開校を祝う手紙、周布公平県知事の卒業式告辞、庫三先生が編纂された『松陰先生遺著』などを常設展示しています。ぜひご覧ください。

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右が松陰、左が庫三先生の墓(平成12年萩市教育委員会提供)
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