【活動報告】第8回樫友ウォーク「大磯に住んだ8人の宰相たち」

令和3年11月6日(土)、15名のご参加をいただき、第8回樫友ウォーク「大磯に住んだ8人の宰相たち」を実施しました。

当日の模様を杉浦リーダー(高19)の文と津田委員(高27)の写真で報告します。

9:15大磯駅に参加者15名と大磯ガイド協会のガイドさん3名の18人が集合し5人ずつの3組に分かれ、スタート。

大磯駅から東海道線の線路沿いに小田原方向へ統監道を200メートルほど進む。統監道とは伊藤博文(朝鮮統監でした)の蒼浪閣と大磯駅をつなぐ道です。大磯小学校の正門前を右折、ガードをくぐり大磯町のお屋敷街へ。まず今回の樫友ウォークとは関係の無い「妙大寺」。順天堂の松本順、キスカ撤退・占守島防衛戦でソ連を苦しめ、そしてユダヤ人の満州通過許可に尽力した樋口季一郎、偉大な評論家福田恆存の墓所がここにあります。このときすでに大磯の奥深さを理解できました。

妙大寺
写真:妙大寺

少し行くと加藤高明の別邸跡。今でも高明ゆかりの方がいらっしゃるとのこと。表札には加藤の文字がありました。すでに今風の立派な建物で昔を偲ぶ縁はすでにありません。

次は寺内正毅の旧邸へ向かいますが、どうしたことかガイドさん道を間違え100mほど直進。そこには日本画の大家安田靫彦画伯の家がありました。「私(杉浦)の伯母が90年昔に奉公してました」とつぶやきましたが皆さんにほとんど無視されました。そこへ後続のグループがさしかかり、道を間違えたことが発覚。

方向転換して緩やかにカーブした道の交差点へ。この辺りではよく村上春樹が目撃されるとのこと。目撃情報が人づてに伝わりご本人の耳に入るといたくご立腹するとのこと。なにせ、上下真っ赤なジャージーでジョギングをしていれば目につくに決まっています。腹を立てながらもフフッとほくそ笑む、ノーベル文学賞候補の心の中は複雑怪奇。嫌みな人なのか?と思ってしまいます。

かつては農道だったのか少し曲がった道を行きますと大倉財閥の屋敷跡。その先、丘の斜面に寺内正毅の別邸。坂を5mほど上がったところにレンガ造りの門がどっしりと構えています。現在のお屋敷の低くなった道路の際に新しいお宅が二軒建っていますがここまでお屋敷だったそうです。

ここから少し南下すると広いお屋敷のあとと思われる広い敷地が分譲されるように整地されています。東に向かいさらに南に方向を変え、東海道線をくぐり最初に歩き始めた統監道の先につきあたります。この先は統監道が国道1号線に直角にぶつかります。1号線に向かって行く途中、左手奥に島崎藤村旧宅が見えました。

歩道橋を渡り松並木の歩道、大磯中学校の脇を100mほど行くと明治維新150年で整備が進められている大隈重信、陸奥宗光の別邸跡(明治記念大磯邸園)。

写真:大磯庭園入り口

大隈邸は創建当時の建物で関東大震災の際も無事であったそうです。庭に根を大きく深く張る楠の木が多く植えられていたため無事だったとのこと。ここの西隣には肥前鍋島家の別邸があったため、大隈はお殿様にお尻を向けられないとの理由で大隈邸の玄関は西向きにしつらえてあります。玄関内には大きな銅鏡が置かれてありました。室内は整備中で‘24年に公開とのことでした。大隈はテロで片足を失ったため縁側に腰掛け海を眺めるのが常であったとのことですが、室内をガラス戸からのぞくと大きな部屋が連なり多くの人が集まり会議やら宴会やらで忙しかったのではと想像できます。

写真:大隅邸・神代の間

庭続きで東隣は陸奥宗光の別邸です。ここは大震災で倒壊、震災後の建物だということで、陸奥の死後の建物となります。陸奥は愛妻家で、英雄色を好むという元勲達とは一線を画して居ましたが、説明板の亮子婦人像を見たら納得です。鹿鳴館の華ともてはやされ、アメリカ公使として陸奥が赴任の際もアメリカで大人気だったそうです。陸奥の次男が古河家の養子となったことから長い間ここは古河工業の保養所として運営されていました。

写真:陸奥宗光別邸

この一角の西隣はマンション。さらにマンションの西隣が伊藤博文の蒼浪閣です。蒼浪閣は整備工事の真最中でした。庭先にも入れなかったのは非常に残念でした。ここで大日本帝国憲法の草案作成。当時のエリート達が集まり知恵を絞っていたのでしょう。

さらに小道をはさんだ西隣が西園寺公望別邸跡。ここは昭和7年に三井の大番頭池田成彬の屋敷になりました。現在地上2階、地下1階の鉄筋コンクリートの洋館が建っています。この建物は修築のうえ将来は明治記念大磯邸園の土産物の販売やレストランとして利用されるとのことでした。

白岩大門というバス停から吉田邸まで行きます。吉田邸まではバス停は二つ。この時点で時計は12時少し前です。が、昼食前に吉田邸の見学です。バス停を降りるとそこは国道1号線が走る先には大きな富士山が見えるはずでしたが雲に隠れて見ることはできませんでした。

吉田邸はカーター米大統領の来日(1979年)の際、大平首相との会談に使用されましたが、その際に入り口の整備で駐車場が作られました。駐車場の上から甲門までの空間にはバラ園が作られました。少しまえまでバラが咲き誇っていたそうです。ウォーキング当日には既に盛りは過ぎていましたがプリンセス・ミチコ(バラの品種名)がわずかばかりですが花をつけていました。

写真:バラ園

玄関前には芝生が広がり、池泉回遊式の池が芝生の先にしつらえられています。池を回り建物の南側の小高くなった場所に「七賢堂」が建っています。これは蒼浪閣に有ったものを吉田が自分の屋敷に移築したそうです。蒼浪閣にあった当時は「四賢堂」でした。四人の賢者とは三条実美、岩倉具視、大久保利通、木戸孝允をお祭りしたものでした。現在はこの四人に加え伊藤博文、西園寺公望そして吉田茂の七人をお祀りしています。

写真:七賢堂

七賢堂の脇に小さな石の碑が立ててあります。これらは犬好きの吉田の愛犬たちのお墓だそうです。「愛犬ポチの墓」と読める石がありました。そこからすぐそばに太平洋を隔てたサンフランシスコを望む吉田茂の銅像があります。階段を降り、坂道を下って行った先にも犬の墓が道端にありました。この犬は政敵大野伴睦を連想させる名前がつけられました。愛犬をかわいがるように政敵伴睦も掌の中で転がしたいと思っていたのでしょう。

庭を一周したあとはいよいよ邸内に入ります。玄関を入って右手奥に応接室の「楓の間」。脇の階段を上がると和室の書斎があります。

写真:近代数寄屋建築の窓

新館に入ると「ローズルーム」ここは食堂です。賓客をもてなす応接間として使われた「金の間」。吉田はこの部屋から富士山を眺めるのを日課としていました。

写真:ローズルーム

さらに寝室兼書斎の「銀の間」。吉田はこの部屋で亡くなられたそうです。

吉田邸の甲門の前で参加者とガイドさんの集合写真を撮影して今回の樫友ウォークは終わりです。

写真:集合写真

が、まだ昼食をいただいておりません。そこで国道1号線を挟んで反対側の三井総領家、三井高棟の住んだ城山荘(じょうざんそう)があった城山公園(じょうやまこうえん)の展望台で遅い昼食会となりました。

なお、ガイドさんの中に小田原高校12回卒業の竹内正美先輩がいらっしゃいました。来年は80歳とおっしゃっていましたが背筋はピンと伸び、歩幅広くガイドする姿は若さに満ちていました。

写真:説明中の竹内さん

報告は以上です。オミクロン型ウイルスの蔓延が続いていますが、次回も基本的な感染防止策に配慮しながらウォークを楽しみたいと思います。

交流委員会